9.29.2011

山本貴光

第3回 読書について(2)

四ヶ月ぶりの更新、連載第三回です。電車の中では本が読めるけど、家に帰るとまるで本を開く気にならない、という人。机に向かうとなかなかページを繰る手が遅くていらいらするけど、愛用のソファに寝転がるとぐんぐん読める、という人。他人の本の読み方など考えたこともなかった。自分の癖も意識してこなかった。今回は、「本を読むということの広がり」を実感していただきます。

愛読、一読、閲読、音読、回読、会読、解読、看読、玩読、句読、訓読、講読、購読、誤読、再読、雑読、査読、色読、失読、試読、侍読、熟読、誦読、触読、真読、斉読、精読、速読、卒読、素読、体読、代読、多読、耽読、直読、通読、積読、摘読、点読、転読、顛読、難読、拝読、白読、判読、範読、繙読、必読、披読、複読、併読、奉読、捧読、味読、未読、黙読、訳読、濫読、略読、流読、輪読、朗読、和読

いきなりお経のような書き出しになりました。ここに並べてみたのは、すべて読むことにまつわる言葉です。名前を与えられている読書の仕方だけでも、これだけの種類があることに驚きますし、これらを、十把一絡げにして「読書」と言ってしまうのは、なんだか雑駁過ぎて申し訳ないような気さえしてきます。

とはいえ、私たちはそうと自覚しないまでも、日々の暮らしのなかで、そのつど自分の必要や状況に合わせて、さまざまなスタイルで読書をしています。ものを読むということは、生活のなかのさまざまな営みと同じように、人それぞれで、そこにはその人の生き方が現れます。

ただ、多くの場合、読書は一人ですることが多いため、他人と自分の読書のスタイルがどのように違っているのか、どのように似ているのかということは、日ごろなかなか実感しづらいところでもあります。そこで、いくつかの読書を論じた書物を並べてみることで、本を読むということの広がりを眺めてみようとしているところでした。

8.15.2011

更新情報
加藤陽子「歴史 この不思議な学問に魅せられて」 後編1 歴史は「戦史」から始まった 8/15 UP

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加藤陽子「歴史 この不思議な学問に魅せられて」 前編1 前編2
加藤陽子「この夏に読んでほしい一冊」 死者の彼岸からの視点で、世界を眺め直してみる
末井昭「自殺」 第1回 第2回 第3回 第4回
國分功一郎「暇と退屈の倫理学」 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回
吉川浩満「理不尽な進化」 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回
大澤真幸「時評」
1. 浜岡問題の隠喩的な拡張力
2. 福島第一原発の現場労働者を支援しよう
3. 想定外のリスクをいかにして想定するか
──原発の安全ための最小限の提案

4. 原発問題と四つの倫理学的例題
5. ドクター・ショッピングと原発情報
大澤真幸「社会は絶えず夢を見ている」 あとがき
中川恵一「放射線のひみつ」 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回
第6回 第7回 第8回 第9回 第10回
山本貴光「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」 第1回 第2回

加藤陽子
絵・題字 牧野伊三夫
母校・桜蔭学園での講演記録 後編1
歴史という言葉が初めて使われたのは、紀元前5世紀のことでした。そしてそこには「戦争」が関わっているのです。紀元前に生きた人たちは、どんなふうに戦争を書きのこしていたのか。今日は終戦記念日ですが、ぐるるっと2500年以上前までさかのぼり、戦争の根本について思いをめぐらせてみたいと思います。(編集部)

歴史は「戦史」から始まった

みなさんが勉強している歴史という学問にも、もちろん“始まり”があります。その起源はどこにあるかというと、戦争にある――「歴史は戦史から始まった」といえるのではないか、こう私は考えています。なぜそういえるのか。紀元前5世紀の古代ギリシアまでさかのぼってお話ししましょう。

ピューリッツァー賞を受賞するような作家がベトナム戦争を描くように、あるいは、その逆で、ベトナム戦争を描いてピューリッツァー賞を受賞するように、アメリカの国家と社会に深刻な亀裂を生んだベトナム戦争は、多くの優れた作家の心を捉えました。感性の優れた人々は、まさに起こっている真っ最中の出来事であっても、何をどのように捉えるべきか、鋭い視覚を提示し、後々に残してくれるものです。

この話からも推測がつくように、紀元前5世紀の人たちも、きちんと同時代の戦争に目を向けていました。

みなさんも古文の授業で、『源氏物語』に接したことがあるでしょう。1001年には成立していたと考えられている、この『源氏物語』を読みますと、「千年以上も前に書かれているのに、なぜ今の自分たちの恋愛感情や季節への感覚と同じなのだろうか」と驚くのではないでしょうか。人間の底にある精神や感情はあまり変わらないということは、古典文学を読むと確認できますね。

人間は歴史をどのように記述しはじめたのか、歴史学に大きな影響を与えた2人の鉄人を紹介しながら、彼らが目の前で起きた戦争をどう考え、どのように記述したかを見ていきましょう。

8.03.2011


過去に起きた歴史的事象の意味が、全く異なった、新たな相貌をたたえて、急に自らに迫ってくることがあると、最近、身にしみてわかった。東日本大震災で発生した、東京電力福島第一原子力発電所における原子力災害の深刻さが、ヒロシマ・ナガサキの意味していたものについて、じわりと私に再考を迫るようになってきたのだ。

ヒロシマ・ナガサキを考えるとき、歴史家としての私はこれまで、日本のおこなった不徳義とアメリカのおこなった不徳義について、どうしても貸借対照表のようなかたちで比較する見方から離れられなかった。しかし、それはどうも違うのではないか。

7.29.2011

國分功一郎

第9回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

スヴェンセン『退屈の小さな哲学』
今度は別の哲学者の退屈論を取り上げよう。本章の冒頭で言及したスヴェンセンの『退屈の小さな哲学』である。

この本は世界一五カ国で刊行された話題の本である(日本では邦訳が新書版で二〇〇五年に出版されたが、全く反響はなかった)。スヴェンセンはこの本を専門的にならないように、いわばカジュアルなものとして書いたと言っている。確かに彼の口調は軽い。だが、その内容はほとんど退屈論の百科事典のようなものだ。もし退屈についての参考文献表が欲しいと思えば、この本を読めばよい。参照している文献の量では、本書はスヴェンセンの本にはかなわない。

スヴェンセンの立場は明確である。退屈が人びとの悩み事となったのはロマン主義のせいだ―これが彼の答えである。

ロマン主義とは一八世紀にヨーロッパを中心に現れた思潮を指す。スヴェンセンによれば、それはいまもなお私たちの心を規定している。ロマン主義者は一般に「人生の充実」を求める。しかし、それが何を指しているのかは誰にも分からない。だから退屈してしまう。これが彼の答えだ*24
*24―Lars Fr. H. Svendsen, Petite philosophie de l’ennui, Fayard, 2003, p.83
スヴェンセン、『退屈の小さな哲学』、前掲書、七九ページ
人生の充実を求めるとは、人生の意味を探すことである。スヴェンセンによれば、前近代社会においては一般に集団的な意味が存在し、それでうまくいっていた。個人の人生の意味を集団があらかじめ準備しており、それを与えてくれたということだ。

7.22.2011

國分功一郎

第8回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

人は楽しいことなど求めていない
退屈する人間は興奮できるものなら何でも求める。それほどまでに退屈はつらく苦しい。ニーチェも言っていた通り、人は退屈に苦しむのだったら、むしろ、苦しさを与えてくれる何かを求める。

それにしても、人は快楽など求めてはいないとは、驚くべき事実である。「快楽」という言葉がすこし堅いなら、「楽しみ」と言ってもいいだろう。退屈する人は「どこかに楽しいことがないかな」としばしば口にする。だが、彼は実は楽しいことなど求めていない。彼が求めているのは自分を興奮させてくれる事件である。

これは言い換えれば、快楽や楽しさを求めることがいかに困難かということでもあるだろう。楽しいことを積極的に求めるというのは実は難しいことなのだ。

しかも、人は退屈ゆえに興奮を求めてしまうのだから、こうも言えよう。幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽を求めることができる人である、と。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心から求めることができることこそが貴重なのだ。なぜなら退屈する人は楽しさや快楽など求めないからである。

7.15.2011

國分功一郎

第7回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

ラッセルの『幸福論』
ここまで、パスカルの考察をもとにして議論を深めてきた。それによって、〈暇と退屈の倫理学〉の出発点を得られたように思う。

人間は部屋でじっとしていられない。だから熱中できる気晴らしをもとめる。熱中するためであれば、人は苦しむことすら厭わない。いや、積極的に苦しみを求めることすらある。この認識は二十世紀が経験した恐ろしい政治体制にも通じるものであった。

今度は、この基本的な認識をもとにしてこの後どのように議論を進めていけばよいか、どんな問題に答えるべきか、そうしたことを考えたい。

そのために二人の哲学者に登場してもらおう。

一人目はバートランド・ラッセル[1872~1970]である。ラッセルは二〇世紀を代表するイギリスの大哲学者だ。『ライプニッツの哲学』や『哲学史』などの哲学史研究から、『数学原理』などの数理哲学まで、哲学の中の幅広い分野をカバーする仕事をした。

また、他方、反ベトナム戦争、反核運動などの平和運動でもよく知られており、ノーベル平和賞を受賞した大知識人でもある。人類が誇るべき偉大なる知性だ。

7.13.2011

時評 第5回

ドクター・ショッピングと原発情報

大澤真幸

福島第一原子力発電所の事故以来、原発の安全性についても、放射線リスクについても、専門家のあいだで意見の一致が見られない。報道に接し、解説を読み、資料にあたっても、正解を得る手がかりさえも摑めないような気がしてくる。「正しい情報なんてあるのか」「どれも信用できない!」との思いにとらわれないだろうか。これを「リスク社会における仮説の発散」と見るとどうなるか。インフォームド・コンセント、倫理委員会、セカンド・オピニオンにも共通する、この危機にあって私たち全員を拘束する「条件」が浮上する。(編集部)


私は、5月に、ここ朝日出版社から『社会は絶えず夢を見ている』(以下『社会・夢』)を出した。これは、講義集で、収録した講義はすべて、3.11の出来事の前に行ったものだが、その内容が、3.11とふしぎなほどに共振しているので、自分でも驚いている。そのことは、このBlogでも読めるようになっている、『社会・夢』の「あとがき」にも記しておいた。『社会・夢』で提起した論点と原発事故(にともなう出来事)との関連について、もう少し論じておこう。

7.08.2011

國分功一郎

第6回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

苦しみを求める人間
だいぶパスカルの議論につきあってきた。そろそろ話を別の方面へと広げていこう。

パスカルの考えるおろかな気晴らしにおいて重要なのは、熱中できることという要素だった。熱中できなければ、自分をだますことができないから気晴らしにならない。

では、更にこう問うてみよう。熱中できるためには、気晴らしはどのようなものでなければならないか? お金をかけずにルーレットをやっても、ウサギを楽々と捕らえることのできる場所でウサギを狩っても、気晴らしの目的は達せられない。

7.05.2011


中川恵一
イラスト 寄藤文平



25 発がんリスクの代表例――甲状腺がんの基礎知識。

チェルノブイリの原発事故では、白血病など、多くのがんが増えるのではないかと危惧(きぐ)されました。しかし、実際に増加が報告されたのは、「小児の甲状腺がん」だけでした。小児甲状腺がんが増加した最大の原因は、旧ソビエト政府が、当初、事故を認めず、初動が遅れた点です。この点、福島第一原発では、まずまず適切な対処がなされてきたと言えます。

放射性ヨウ素(I‐131)は、体に入るとその30%程度が甲状腺に取り込まれます。これは、甲状腺ホルモンを作るための材料がヨウ素で、甲状腺がヨウ素を必要としているからです。

普通のヨウ素も放射性ヨウ素も、人体にとってはまったく区別がつきません。物質の性質は、放射性であろうとなかろうと同じだからです。たとえて言えば「食べ物があったので食べてみたら、毒針がついていました」ということなのです。

7.02.2011

國分功一郎
第5回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

もっともおろかな者
さて、いまわたしたちはパスカルの手を借りながら、人間のおろかさのようなものを取り上げて論じている。まるでそれが人ごとであるかのように。

先に〈欲望の対象〉と〈欲望の原因〉とを区別したけれども、これは実に便利な区別であるから、日常生活で応用したいと思う人もいるかもしれない。たぶん、「君は自分の〈欲望の原因〉と〈欲望の対象〉とを取り違えているな」と指摘できる場面は日常生活の中に数多く存在しているだろう。

6.24.2011

國分功一郎
第4回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

原理というのは、すべての議論の出発点となる考えのことである。暇と退屈の原理論と題された本章では、暇と退屈を考えていくための出発点を追求しようと思う。

ではどこにそれを求めようか? どんなテーマについても、たいていそれを論じているひとがいる。そうした先駆者の考えを参考にできれば効率がいい。ここでもそのようなやり方をとることにしよう。

暇と退屈を考察した人物として本書が最初に取り上げたいのは、十七世紀のフランスの思想家、ブレーズ・パスカル[1623~1662]の議論である。

6.23.2011

中川恵一
イラスト 寄藤文平
21. 「いつ・どこで・どんなものが・どの期間」に注目する。

福島第一原子力発電所の事故以来、ニュースでは、
――「浄水場の水から、乳児の摂取量の上限となる暫定基準値を上回る量の放射性ヨウ素が検出」
――「海水の放射性物質、基準上回る。ヨウ素131の濃度は、今月2日に基準値の750万倍」
といった表現をひんぱんに目にするようになりました。(ただし安全を見越して、基準値自体が低い値に設定されていますから、「○○倍」という言い方も若干問題かもしれません。)

放射線の人体への影響を考えるには、「いつ・どこで・どんなものが・どの期間」に検出されたのか、を確認することが大事です。

6.17.2011

國分功一郎
第3回

革命は一瞬の出来事(祝祭)のように語られてきた。ロマンチックである。革命の前にも、革命の渦中にも、革命の後にも、生活は続く。いまを犠牲にするものは、永遠の高みにある革命という大義(理想)の前に、常に犠牲を求められることになる。いまを捨てて、未来をとる。その転倒した発想と縁を切れるか。今回は、著者にとって格別の愛着の対象(ウイリアム・モリス)から語りおこされる。(編集部)

序章――「好きなこと」とは何か?(承前)

〈暇と退屈の倫理学〉の試みは決して孤独な試みではない。同じような問いを発した思想家はかつて存在した。時は一九世紀中頃。イギリスの社会主義者、ウイリアム・モリス[1834~1896]がその人だ。

モリスはイギリスに社会主義を導入した最初期の思想家の一人である。当時の社会主義者・共産主義者たちは、どうやって革命を起こそうかと考えていた。いまでは想像もできないかもしれないが、彼らにとって社会主義革命・共産主義革命はまったくもって現実的なことだった。そして実際に二〇世紀初頭にはロシアで革命が起こるのである。

6.13.2011

中川恵一
イラスト 寄藤文平
17. 38億年間、生物は放射線の中で生きてきました。

放射線が生命に影響を与える仕組みの鍵は、遺伝子=DNAです。DNAは、ヒモのような形をしていますが(二重らせん構造)、放射線は、このヒモを切断するのです。

紫外線で日焼けなどの皮膚障害が起こりますが、これは、皮膚表面の細胞のDNAに切断が起こるためです。紫外線は体の奥には達しませんが、放射線は、透過力が強いため、体の深部にある臓器の細胞のDNAにも切断を引き起こします。

6.10.2011

時評 第4回

原発問題と四つの倫理学的例題

大澤真幸

原発事故の収束は見通しが立たず、事故による避難者数は約10万人と推計される。この三ヶ月の間に次々に明らかにされる事故対応の不備、齟齬、無策、隠蔽、糊塗。中部電力浜岡原発は停止に追い込まれ、圧倒的な不信感が日本を覆っているかに見える。ところが、脱原発派は多数ではない。先月、かろうじて「原発消極派は57%」と集計されたにとどまるのだ。青森県知事選でも、原発推進派の現職が三選を果たした。これだけの被害と不信を日ごと募らせても、なお原発と縁を切ろうとしないのはなぜか。経済効果では説明しがたい。そこにどんなメカニズムが働いているのか。(編集部)

昨年、NHK教育テレビの講義で注目を集めた、政治哲学者のマイケル・サンデルは、第一回目の講義で、倫理学者や哲学者の間ではよく知られている、次のような思考実験的な例題に言及している。今、あなたは電車の運転手である。しかも、不幸なことに、あなたの電車は、故障してブレーキが利かなくなっている。さらに不幸なことに、あなたの電車の前方の線路には、5人の作業員が仕事をしていて、あなたの電車が猛スピードで近づきつつあることにまったく気がつかない。このまま走り続けたら、あなたの電車は5人を轢き殺してしまうことになる。
國分功一郎
第2回

少しは余裕ができた。明日の糧をどうやって手に入れるか、そのうんざりするような綱渡りから、やっと解放された。差し当たり雨露をしのぎ口にするものは手に入った。そればかりか、休日に何をするか、思い煩うことも増えた。そして時折り胸に兆すある痛覚。「何が楽しいのか分からない」……。問いがくっきり視界に捉えられる。(編集部)

序章――「好きなこと」とは何か?(承前)

最近他界した経済学者ジョン・ガルブレイス[1908~2006]は、二〇世紀半ば、一九五八年に著した『豊かな社会』でこんなことを述べている。

現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられて初めて自分の欲望がはっきりするのだ。自分が欲しいものが何であるのかを広告屋に教えてもらうというこのような事態は、十九世紀の初めなら思いもよらぬことであったに違いない。*2

6.08.2011

中川恵一
イラスト 寄藤文平
13. 放射線をあびる「範囲」も大事です──局所被ばくと全身被ばく。

放射線をあびる「強さ・勢い」だけでなく、吸収する「範囲」によっても、放射線の人体への影響に、大きな違いが出てきます。

火にあたると、全身が温かくなります。これが行き過ぎると、全身火傷です。空中を飛んでいる放射線を全身にあびるのは、これと同じ状況です。これを「全身被ばく」と言います。

6.05.2011

國分功一郎
第1回

パスカルは「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる」と言った。耳が痛い。じっとしていられないのはなぜか。なぜうろうろしてしまうのか。無聊をかこつからに違いない。無聊は「退屈なこと、心が楽しまないこと、気が晴れないこと」。「なんとなく退屈だ」と感じたことのない人はまずいない。空元気を出しても、斜に構えても、この気分から逃れる術はないように感じる。では、退屈を散じるために何があるか、手持ちの材料を点検してみるとまことに頼りないことがわかってくる。「我々の最も深いところから立ち昇ってくる「なんとなく退屈だ」という声に耳を傾けたくない、そこから目を背けたい…。故に人は仕事の奴隷になり、忙しくすることで、「なんとなく退屈だ」から逃げ去ろうとするのである」。これがハイデガーの言葉であると知って、いささか驚く人も多いだろう。退屈をめぐる哲学と倫理学が、ここに要請される。(編集部)

序章――「好きなこと」とは何か?

人類の歴史の中にはさまざまな対立があり、それが数えきれぬほどの悲劇を生み出してきた。だとしても、人類が豊かさを目指して努力してきたこと、豊かさが人類の目標であったこと、それは事実として認めてよいものと思われる。

人々は社会の中にある不正と闘ってきた。なぜなら、社会をよりよいものにしようと、少なくとも建前としてはそう思ってきたからだ。

しかし、ここでとても不可解な逆説が見出される。人類が目指してきたはずの豊かさ、それが達成されると人が不幸になってしまうという逆説である。

6.01.2011

中川恵一
イラスト 寄藤文平


前回(第5回)までは、放射線についての「基本用語」を紹介してきました。今回からは応用的な話題に入ります。放射線が私たちの体に及ぼす影響と、その対処の仕方。放射線を「正しく怖がる」ための処方箋です。書籍版も好評販売中です。

11. 放射線は身の回りにあります。

放射線は、今回、福島原発の事故で急に注目されることになりました。もともと目に見えず無味無臭なので、知らなかったという方も多いかもしれませんが、実は、福島原発の事故とは無関係に、私たちはだれでも毎日「被ばく」しています。

5.31.2011

山本貴光

第2回 読書について(1)

連載第二回。テーマやジャンルの良書をどんどん紹介する、という展開と思いきや、筆者は、そうしたブックガイドの通例に反して、読書が(そもそも)良きものと推奨された時代の最良の証言を召喚することにしたようです。読書に就く前に知っておいていいかもしれない「読書術」のガイド。

コンピュータやネットワーク、ケータイやiPad、Kindleといった各種ディジタル機器の普及によって、書物や文章を読む環境が、かつてなく広がり、多様になっています。そうした状況のなか、従来使われてきた紙の書物の位置もまた、かつてなく揺らいでいるようです。電子書籍が何度目かの登場を果たし、「電子か紙か」といった議論を目にする機会も増えています。

ところでこの連載は、ブックガイド、つまり書物の案内を目的とするものです。ですから周囲の変化に惑わず、従来の紙の書物の話を淡々と進めるのも悪くないと思いました。しかし、せっかくの機会でもあります。この際、「読書」とはどういう営みなのか、「書物」とはなんなのか、ということについて、いま一度、とっくり考えてみることから出発してもよいのではないかと思い直した次第です。いわば足下から見直してみようというわけです。

5.27.2011

時評 第3回

想定外のリスクをいかにして想定するか
──原発の安全ための最小限の提案

大澤真幸

連載時評第三回。原発推進派と脱原発論者の対話が成り立たない、としばしば言われる。では、こんな提案はどうだろうか。「もし安全な原発がありうるとすれば、今までとは圧倒的に異なった意味で安全だと見なしうる原発があるとすれば、それは、脱原発派が挑戦的に提起してくるようなリスクにも耐えられるような原発を建設できた場合のみであろう」。


将来の原発の安全性に関して、具体的な提案をさせてもらいたい。

私は、中長期的な視野にたったとき、原発を全廃するしかないと思っている。東電の福島第一原発の事故の現状を知ったとき、またこうした事故にいたるまでの歴史を前提にしたとき、原発をすべて廃炉にするという結論以外に、将来の安全性を保障する責任ある判断はありえない。これが私の考えである。

5.24.2011

中川恵一
イラスト 寄藤文平
9. 放射線が変われば、人体への影響に違いが出てきます。

ここで、放射線の基本に立ち返ってみます。(やや込み入った話になりますので、読み飛ばしていただいてもかまいません。)

一口に「放射線」といっても、そこには アルファ線(α線)、ベータ線(β線)、ガンマ線(γ線)、中性子線など、たくさんの種類があるのをみなさんはご存知でしょうか。種類が違えば、性質も異なり、人体に与える影響も違います。

5.20.2011

時評 第2回

福島第一原発の現場労働者を
支援しよう

大澤真幸

新著を刊行した大澤真幸さんによる「時評」第二回です。原子力発電所の帰趨をにぎるのは作業員の方々である。彼らの苛酷な労働環境を想像するとき、私たちにできることはないのだろうか、と思わずにいられない。大澤さんの提言をお読みください。


今、日本で、いや世界で最も重要な仕事、最も多くの人の最も基本的な運命を左右する仕事は、東京電力福島第一原子力発電所にある。日本の運命は、福島第一原発の労働者の働きにかかっていると言って、過言ではない。したがって、われわれ全員が、日本人はもちろんのこと世界中の人々が、福島原発の労働者を支援してもよい立場にある。

今回は、この福島第一原発の労働者について書いておく。内容は難しくはない。ごく単純なことばかりである。

5.19.2011

中川恵一
イラスト 寄藤文平
7. 「シーベルト/シーベルト毎時」は「距離/速度」の関係。

10ミリシーベルト(mSv)という表現を見たり聞いたりしたときには、それが何の量を表しているか、注意が必要です。

だれでも知っている10キロメートル(km)の場合と同じこと。この10キロとは、距離なのかスピードなのか、その都度、判断しているはずです。同じ10でも、一方は距離、他方は速度。

5.11.2011

中川恵一
イラスト 寄藤文平
第3回
5. 「シーベルト」は放射線が人間の体に与える影響を示す単位。

放射線の量と強さを測るには、何を測るかによって、さまざまな単位が用いられます。その代表は「シーベルト(Sv)」です。

これは放射線をあびた(被ばくした)ときに、人間が受ける影響の強さを示しています。あびた放射線が強ければ強いほど、人間が受ける影響も強くなる。つまり、シーベルトの値も大きくなります。シーベルトという単位によって、いろいろな種類の放射線の影響を同じ尺度で比べることができるわけです。

5.10.2011

時評 第1回

浜岡問題の隠喩的な拡張力

大澤真幸

まもなく新著を刊行する大澤真幸さんが、毎週「時評」を寄せてくださることになりました。第一回は、浜岡原発。ある政治的な決定に触れると、だれしも何か不満を触知する、そんな習性はどこに起因するのか、どうやって脱出するか。

ウィンストン・チャーチルは、労作『第二次世界大戦』の結末で、政治の役割、政治における決定の神秘について論じている。学者や専門家は、いろいろな案件について、複雑で多様な分析結果を提示する。その分析結果から示唆される選択肢のそれぞれに関して、それに賛成すべき理由ひとつに対して、反対すべき理由がふたつあるとか、逆に、反対すべき理由ひとつに対して、賛成すべき理由がふたつあったりする。専門家たちは、だから、必ずこう言う、「一方でOn the one hand...、他方でOn the other hand...」と。こうした状況で、誰かが、はっきりと決定しなくてはならない。決定というこの行為が十分な根拠をもつことは、絶対に不可能である。その不可能なことを引き受ける者、それが政治家だというのが、チャーチルが言わんとしたことである。

5.06.2011

中川恵一
イラスト 寄藤文平
第2回
3. 「放射能がやって来る!」はまちがいです。

「放射線」「放射能」「放射性物質」。どれも互いによく似た言葉ですが(だからこそ、よく混同されるのですが)、意味はそれぞれ異なります。

「放射線」は、物質に“電離”を与える「光」や「粒子」のことですが、平たく言えば、物体を突き抜ける能力の高い光や粒子のことを指します。さまざまな種類の放射線があって、その性質もそれぞれ違うのですが、とりあえず、全部まとめて「放射線」と呼んでおきます。

5.04.2011

加藤陽子
絵・題字 牧野伊三夫

母校・桜蔭学園での講演記録 前編1
一昨年の秋、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の著者・加藤陽子さんが、母校である桜蔭学園を訪れました。そのときの講演録を2回に分けてお届けいたします。掲載にあたり、一部加筆しています。

14歳
――丸ちゃん先生がもたらしてくれた、数学への目覚め

こんにちは。加藤陽子です。私は現在、東京大学文学部で日本近代史を教えています。今日は、みなさんに、私がどのように進路を決めていったかということ、そして私の専門分野である歴史学についてお話しするためにやってきました。母校で講演するのは初めてで、実はとても緊張しているのですが、みなさんと同じ中高生だった頃を思い返しながらお話ししていきたいと思います。

私は現在50歳になりますが、子どもがいません。ですので、みなさんのような可愛くて賢いお嬢さんたちを見ていると、ひとりくらい連れて帰ってしまおうか(笑)、なんて思ってしまいますね。私が在学していた20数年前と違って、なんだか桜蔭学園も芋畑から花畑へと変容を遂げているのかもしれません。
加藤陽子
絵・題字 牧野伊三夫
母校・桜蔭学園での講演記録 前編2
一昨年の秋、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の著者・加藤陽子さんが、母校である桜蔭学園を訪れました。そのときの講演録を2回に分けてお届けいたします。掲載にあたり、一部加筆しています。

ひとりの先輩と、歴史との出会い

それでは、なぜ私が歴史学へ進んだのか、そのきっかけとなることをお話ししましょう。
物理部と兼部して社会科部にも入っていたといいましたが、その社会科部で、私はひとりの先輩と出会います。

きっとみなさんにも素敵な先輩、格好いい先輩、嫌な先輩がそれぞれいると思いますが、社会科部の村山先輩は、クールで中性的な女子高の憧れの先輩像とはまったく違う、いわおのような先輩でした(笑)。高校1年生なのに、なぜかお母さんのような風格が漂う偉人でした。ところかまわず偉人が出没するあたりが、桜蔭の良いところなのかもしれません。

やはり文化祭の話になりますが、中学2年生のときの文化祭で、社会科部は「世界恐慌と1930年代のアメリカ」というテーマで発表を行いました。夏休みに各自が分担して準備するのですが、幼くてまだ可愛らしかった私は、先輩から言われたテーマを一生懸命調べて、レポートを書いていくのですね。そうすると、そのレポートを村山先輩は真っ赤に添削して返してくる。

5.03.2011

中川恵一
イラスト 寄藤文平
第1回

東日本大震災の被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。今回の原発事故により、「放射線」という言葉を聞かない日はありません。ただ怖がる、のではなく、「正しく怖がる」ために必要なことを皆さまと共に考えていきたいと思います。

1. 放射線を語るための「言葉」からはじめましょう。
テレビから突然、「シーベルト」とか「マイクロ」とか「ベクレル」とか、耳慣れない言葉が聞こえてくるようになりました。

よくわからないからこそ、「怖そう」とか、「どうなってしまうんだろう」といった不安や恐怖を抱いている方も多いのではないでしょうか。

『社会は絶えず夢を見ている』

あとがき
大澤真幸

今月中旬に刊行する新刊『社会は絶えず夢を見ている』から「あとがき」を転載します。──「いつも「リスク社会」は可能性として語られてきた。ついに到来した「震災・津波・原発」の惨状を見据え、ありうべき克服を提起する強靱な思考」と、書籍の帯に記しました。連続講義の書籍化、第一弾です。


今、われわれは、日本人は、「夢」の中にいるかのようである。3・11の破局の後、すなわち二〇一一年三月十一日午後二時四十六分に東日本の太平洋岸を襲った震災と津波の後、さらにこれにひき続く福島第一原子力発電所の事故の後、私自身を含む多くの日本在住者は、まるで「夢」の中を生きているかのような感覚を覚えている。その夢は、覚醒以上の覚醒であり、破局以前の日常の方こそがむしろ、微温的なまどろみの中にあったことを、われわれに思い知らせる。

本書に収録した四つの講義はすべて、3・11の破局よりも前に行われたものである。しかし、私自身が驚いている。講義の中のさまざまな論材が、破局後の主題とあまりに直接的に対応していることに、である。
山本貴光
第1回 書物はつながりあっている

これから月に二度ばかり、「書物の海のアルゴノート」と題して、ブックガイドを務めせていただきます。今回は、連載全体への前口上がてら、このブックガイドで試みたいことについてお話ししてみます。

古くは古代シュメールの楔文字が刻まれた粘土板からこの方、人類はほとんど無数と言いたくなるほどの書物やそれに類するものをつくってきました。その量は、年を下るにつれて、さまざまな技術の発明・革新とともに増え続けています。

その厖大な書物の海を旅してまわりながら、そこここで目にしたものを報告する。そんな気分を表したいと思って、古代ギリシアの冒険譚『アルゴナウティカ』にあやかってタイトルをつけてみました。黄金の羊の毛皮を求めて龍と戦うわけではありませんが、毎回、或るテーマを決めて、それにまつわる書物を何冊か選び、これをご紹介しようという趣向です。